中国の歴代の最高指導者(国家元首)

習近平 | 胡錦涛 | 江沢民 | 鄧小平 | 華国鋒 | 毛沢東

※政府での肩書き(国家主席、元首)あるいは共産党における肩書き(党総書記、党主席、党首)を問わず、 実権を握り、トップとして君臨した人物です。江沢民時代の途中から、国家主席と最高指導者が同一になりました。

代次 名前と統治期間 功績、略歴など
6代目 習近平
(しゅう・きんぺい)

(シー・ジンピン、シー・チンピン)

2012年11月~
現在


習近平


【動画】
演説→

テレビ解説→
党総書記、中央軍事委員会主席、国家主席という「党・軍・国家」の最高ポスト3つすべてを手に入れて政権をスタートさせた。 前任の胡錦濤氏のときは、前々任の江沢民氏が2年間にわたって軍事委主席にとどまっていた。 その江沢民氏も、最高ポストを全て掌握するまでタイムラグがあった。
権力を当初から自分に集中させた習近平氏は、1期目において早々に、歴代政権が取り組めなかった「反腐敗」や軍改革を実行した。

2期目(2017年11月~)には、「社会主義の現代化」を2035年までに実現し、建国100周年となる1949年前後には、世界最高水準の国力を持つ「社会主義現代化強国」を目指すとの目標を掲げた。

2018年、国家主席の任期を「2期10年」としていた規定を撤廃させることに成功。 超長期政権への道を開き、毛沢東以来の絶大な権力を手に入れた。 国民の言論活動や民間企業の経済活動に対する引き締めを強化した。香港の民主主義を骨抜きにした。

また、GDP世界2位となった経済力を背景に、国際的な政治的影響力を一気に増大させる動きに出た。 各国への融資・投資を積極的に行い、親中派を増殖させた。 軍事的なタカ派路線も一段と顕著になった。 こうしたなか、中国・武漢発ウイルスの大流行(2020年~)が発生。 海外で反中国的な潮流が強まることとなり、今後の外交面での舵取りが注目されている。
5代目 胡錦濤
(こ・きんとう)

(フー・チンタオ)

2002年11月~
2012年11月


胡錦涛


【動画】
演説→
中国を世界第2の経済大国に押し上げた。 無難な経済運営を続けた結果、2010年にGDPで日本を抜き、世界2位に浮上。 2011年の名目国内総生産(GDP)総額は47兆元(約600兆円)と、就任した2002年の4倍近くに膨れ上がった。個人所得も急増し、多くに庶民にとって、住宅や車の購入が現実的な選択肢になった。

北京五輪を成功させるなど、大国としての華やかな成果を挙げた。

とはいえ、以上の成果は、自らのリーダーシップというより、前任の江沢民指導部あるいは朱鎔基前首相の敷いたレールに乗った面が強い、との声もある。

貧富の格差や腐敗の広がりへの取り組みは徹底せず、果断さの欠如が指摘された。構造的な経済改革に取り組めなかった。 一党独裁下での経済発展により、党幹部らを中心にした特権階級が生まれ、逆に貧富の格差が拡大した。 乱開発や公害など深刻な社会問題を招いた。政治改革の面でも、大きな進展が見られなかったとの批判がある。

中国はそれまで、経済発展を優先した外交を展開していた。しかし、胡政権の後半に、主権と安全保障も重視する外交への転換があった。 また、台湾との関係改善では成果を挙げたと評価されている。
4代目 江沢民
(こう・たくみん)

(チアン・ツォーミン)

1989年11月~
2002年11月


江沢民


【動画】
演説→
1989年の天安門事件で失脚した趙紫陽総書記の後任として、上海市党委員会書記から総書記に就任した。

前任の鄧小平氏は自身が熱烈な改革推進派でありながら、それ以上に中国指導部内の改革派対保守派の対立を超えたバランサーとして強大な指導力を発揮してきた。 だが鄧小平氏は、胡耀邦、趙紫陽両総書記らを後継者として育てながら保革抗争の中で切り捨てざるを得なかった。その結果、最後の選択として江沢民氏を総書記に据えることになった。

江沢民氏を知る人々は、江沢民氏が有能なテクノクラートであることを認めつつも、当初は「12億のトップの器」であるとの印象を抱けず、不安や不満を漏らすものもいた。 だがその種の評価も毛沢東、周恩来などあまりにも「偉大」な指導者が去って間もないうえ、鄧小平氏の巨大な存在を前提として江沢民氏を見た印象であった。

李鵬首相についても、「偉大さ」を感じる人は少なかったようだ。 天安門事件以降の「治理整頓」と呼ばれた政治、経済、社会にわたる引き締め政策を推進したことで、改革志向の人々の間では、評判が芳しくなかった。

こうしたなか、江沢民政権の後半の1998年3月、李鵬首相の後任として就任した朱鎔基(しゅ・ようき)首相は、国有企業改革、行政機構改革、金融体制改革の3大改革に着手した。 このうち国有企業の改革などで大きな成果をあげた。 失業者増大という犠牲を払いながら、改革をやり遂げた朱氏の実行力は、高く評価されている。

世界貿易機関(WTO)加盟も、朱首相が成し遂げた。これにより、大量の外国投資が入った。

また、北京五輪と上海万博も、江沢民政権の努力で招致に成功した。
3代目 鄧小平
(とう・しょうへい)

(トン・シャオピン)

1978年12月~
1989年11月


鄧小平


【動画】
国連演説→

来日記者会見(副首相時代)→
社会主義体制を維持しながら、市場経済のシステムを導入した。 「市場」の力をうまく利用することで、20世紀終盤から21世紀へと続く中国の奇跡的な長期経済成長の土台をつくった。

過去3度にわたって失脚。そのたびに復活を果たした。 トップ就任後は、毛沢東の「貧困のユートピア」を否定。それまでの革命・政治第一主義を、経済優先主義に転換させた。

具体的には、農民の生産請負制、工場長の責任制、沿海開放都市、経済特区と矢継ぎ早の改革を行った。 先進国からの豊富な資金と先進的な技術の導入をめざす「対外開放」を推進した。

その結果、1979年から10年間でGDPの2倍増を実現し、国民生活も豊かになった。 それまで暗い閉鎖的な印象を持たれていた社会主義中国は、国際社会に積極的に参加することを期待される、明るい開放的なイメージの国に変容した。

一方で、政治的な改革は後回しとなった。学生らによる民主化運動が高まると、軍隊の力で鎮圧した。 天安門事件(1989年6月)では、丸腰の市民や学生に対して軍隊が銃口を向けた。世界の指弾を受け、四面楚歌(そか)となった。

天安門事件の5か月後、すべての役職を退き、後任の江沢民に譲った。

天安門事件の影響で、経済は停滞した。 さらにソ連・東欧社会主義の解体によって、中国社会主義は危機に直面した。 そんな1992年春、引退していた鄧小平は「南巡講話」を行う。 改革先進区として著しい発展をしていた広東や福建を視察し、市場開放と経済発展の加速を訴えた。 それにより、全国を高速成長の「熱気」に巻き込んだ。

この南巡講話を境に経済は急成長を遂げた。1992年以来、経済は3年連続して13%前後の成長率を記録。 かつて亡国の危機にあった中国が、1990年代後半には「次の超大国」として世界的に注目されるようになった。

鄧小平は最期まで「国が豊かになる」ことを最優先させた。 そのうえで障害となる「思想」や「主義」への過度なこだわりを取り除いたことが、 国家にとって大きな遺産となった。
2代目 華国鋒
(か・こくほう)

(ホワ・クオフォン)

1976年10月~
1978年12月


華国鋒
1966年から10に及ぶ文化大革命は、毛沢東の後継者たちの墓場となった。建国前の1945年の党大会で、後継者の地位を確保した劉少奇((りゅう・しょうき)もその一人だった。「資本主義の道を歩む実権派」として批判され、悲惨な死に追いやられた。ソ連のフルシチョフに修正主義を見た毛沢東は、劉少奇に同じものを見てとったとされる。

毛沢東の劉少奇追い落としの共謀者・林彪が新たな後継者となり、党の規約にまでそのことが明記された。しかし、その転落も早かった。劉少奇の失脚で空席となった国家主席(国家元首)の座を狙った林彪は、野心ありとして毛沢東に疎まれ、1971年、海外逃亡を余儀なくされた。搭乗機がモンゴルで墜落。抗日戦、国共内戦の英雄はあっけない最期を遂げた。

劉少奇とともに失脚したものの、林彪の死去で後継者にまで浮上した鄧小平は文化大革命の軌道修正を図った。だが、毛沢東の怒りに触れ1976年再び転落した。

毛沢東が最後に選んだ後継者が、凡庸ではあるが、毛沢東にあくまでも忠実な華国鋒(か・こくほう)だった。毛沢東が在任中に死去すると、ナンバー2の地位にいた華国鋒が最高実力者となった。 すぐに毛沢東夫人・江青らの「四人組」を逮捕して国民の喝さいを浴びた。逮捕翌日に党主席に就任。

しかし、毛沢東には誤りなしとする愚直なまでの忠実さが命取りとなり、最後は、復活した鄧小平に足元をすくわれた。短命政権に終わった。その背景には、文化大革命に象徴される激しい政治闘争にあきあきし、生活の豊かさを求める国民の動向があった。
1代目 毛沢東
(もう・たくとう)

(マオ・ツォートン)

1949年10月~
1976年9月


毛沢東


【動画】
建国宣言→

建国前の演説→

ドキュメンタリー→

歴史の授業「共産党の戦い(北伐)」→

歴史の授業「毛沢東の暴走」→

歴史の授業「毛沢東の復活」→
<新しい中国を建国>
農村でのゲリラ戦という独特の闘争で国民党を打倒し、革命を勝利に導いた。帝国主義、封建主義、官僚資本主義という「三つの大きな山」を覆し、1949年、中華人民共和国を樹立した功績はだれも否定できまい。

中国は、清朝末期から一世紀にわたって混乱に陥っていた。 辛亥革命で清朝が滅亡したあと、中国は軍閥が入り乱れ、列強が権益をむさぼり、国内はズタズタになった。 毛沢東率いる共産党は、その巨大な混とんを、抗日戦争、そして国民党軍との内戦の末に収束させた。 国民党との内戦に勝利した後の1949年10月1日、中華人民共和国を建国。一つの国にまとめ上げた。それは、秦の始皇帝をもしのぐ驚異だった。 毛は自ら国家主席に就任し、執念ともいうべき国家建設と思想改造を推進した。

<生い立ち>
毛は1893年(明治26年)12月26日、湖南省韶山沖で生まれた。17歳で目撃した長沙での十数万人の飢餓暴動と清朝政府鎮圧軍との衝突が、階級闘争の決定的動機だったという。

1921年(大正10年)年、中国共産党設立と同時に参加し、農民・農地解放運動で活躍。1931年には江西瑞金に中華ソビエト共和国を設け主席に就任した。

<国民党との戦い>
国民党軍と内戦中の1934年から2年間、南部の根拠地から黄土高原まで、1万2500百キロを戦いながら移動した。毛沢東はこの過程で党内の主導権を握る。そして、20世紀の奇跡といわれる行軍「長征」を成功させた。

武器は貧弱だった。それでも長征で勝利を得たのは、農民の支持があったからだった。人口の大半を占める小作貧農を地主支配から解放し、その支持を得た。長く続いた封建社会を壊し、農民を国の主役にした。つまり、毛沢東の社会主義は、農民革命でもあった。

<農民の心をつかむ>
毛沢東はいかにして下層農民ら底辺の人々の心をつかみ、団結させ、農村革命を成功させたのか。それを解くカギは毛が根拠地で行った、二つの重要な政策に求めることができる。

その第一は、「60%以上が地主に握られ、農民の手にあるのは40%以下」(毛沢東「井岡山の闘争」)という土地の所有問題の解決に全面的に取り組んだことにある。地主の土地を没収し、実際に田畑を耕す者たちに公平に分配することによって、自分の土地を持ちたいとの農民たちの最大の欲求にこたえ、広範な支持基盤を築いた。

第二に、労農革命軍を名実ともに「人民のための軍隊」へと改組。そのための精神をたたき込んだ。創設間もない軍の中には元流民なども少なくなく、農民から食糧をかすめ取ったり、地主・土豪からの徴発品を山分けしたりする現象が見られた。このため、毛沢東は「三大規律」「六項注意(後に八項注意)」という厳格な軍規を定め、「行動は指揮に従う」「人民からは針一本、糸一筋も取らない」などの方針を貫徹させた。

毛沢東の政策は、理論的武器としてはマルクス・レーニン主義の衣をまとっていた。だが、「食べ物があればみんなで食べ、着る物があればみんなで着る」といった、中国に伝統的な平等主義のユートピア思想(大同思想)の影を引きずっていたともいえる。

■大躍進(1958年~1961年)
1957年11月、毛沢東はモスクワの世界共産党会議で気宇壮大な生産目標をぶち上げた。「中国は15年のうちに鉄鋼生産量で英国に追いつき、追い越す」。現実よりも共産主義の理想にとらわれた毛は帰国後、党内の慎重論をはねのけ、大衆動員による技術改革運動などを通じて生産の飛躍を目指す「大躍進」をスタートさせた。

こうした中、翌年8月の北戴河(ほくたいが)会議は農村の人民公社設立を決議。年末までに全国74万の農業合作社が2万6000の人民公社に生まれ変わった。

人民公社は、大躍進の三本柱の一つとして華々しく登場した。もともと、「公社」は中国語でコミューンを意味する言葉である。パリ・コミューンに強いあこがれと、熱い思いを抱く毛沢東の号令によって、それまでの高級農業生産協同組合を連合する形で全農村に設けられた。特徴は、行政機能と経済生産を統合(政社合)した点にある。

毛主席の狙いは、人民公社を足がかりにしての国家コミューン化であったといわれている。公社級、生産大隊級、生産隊級の三つの級にわかれ、土地、家畜、農業機械、資金を共有し、独自の分配方式を持つなど、進んだ社会主義経済のヒナ型としてもてはやされた。

しかし、大躍進運動は、食糧の水増し報告や粗悪な鉄を大量生産するなどの浪費を生んだ。農民を「土法煉鋼」と呼ばれる旧式の製鉄製造に追い込み、悪質な鉄鋼を生産、飢餓という大人災をもたらした。人民公社は自留地、家畜の共有化などの行き過ぎた平均主義で農民の労働意欲を大きく減退させた。

自然災害も加わって、食糧の大幅減産とそれに伴う広範囲な飢餓をもたらした。事態を憂慮した彭徳懐国防相は1959年7月の廬山(ろざん)会議で、毛沢東に政策転換を直訴したが、反党的として怒りを買い、解任された。

■文化大革命(1966年~1976年)
1966年からの10年、文化大革命は工場、学校、伝統文化を破壊した。政治的には四人組の暗躍に象徴されるような権力闘争に明け暮れ、暗黒の時代と総括されている。

1956年2月、ソ連のフルシチョフ第一書記はソ連共産党大会で、体制の異なる国家間の平和共存と社会主義の多様化を認め粛清や個人崇拝を否定した。いわゆるスターリン批判に世界で最も恐怖を感じたのは毛沢東だった。自分への個人崇拝を認め、「世界を抱きかかえるまで大きくなりたい」との野望をもつ毛沢東は、対露関係を絶縁し、党内のフルシチョフ的人物の一掃にとりかかった。

劉少奇ら同志を死に追いやり、不法に迫害された者だけで1億人は超えたという。

「造反有理」。この魅惑的な言葉が若者をとらえたのは、文化大革命が始まった1966年夏だった。紅衛兵たちは四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)打破の呼び掛けの下、「毛語録」を掲げ、文化人、知識人をつるしあげた。劉少奇、鄧らの「走資派」打倒運動に熱狂的に参加した。

文化大革命の挫折のなかで、人民公社にも多くのひずみが表面化した。農村に生産責任制が導入され、「万元戸」が誕生する風潮のなかで、人民公社は実情に適応できない局面を露呈してきたのである。

文革の実相を追究した作品で知られる天津在住の作家、馮驥才氏は1989年、次のように語った。「毛沢東は、外国に侮辱され、奴隷状態にあった中国を統一し、自尊心のある国にした。この偉大な功績はいつの時代でもだれでも抹殺できない。毛沢東が文革を発動したことは許されないが、文革の責任はすべて毛沢東にあるという論理には私は賛成しない。毛沢東は歴史の上で永遠に評価しきれない人物だと思う」。

革命闘争であれだけ「実事求是(じつじきゅうぜ)(事実に基づいて真理を探る)」の魂を発揮した毛沢東が、晩年は自らその精神に背いてしまった。

1976年9月9日、紅青以下四人組への批判と鄧小平ら現実派の台頭の中、83歳で死去。在任中に亡くなった。1981年6月、鄧小平の下での六中総会で「偉大なる革命家であったが文革で重大な誤りを犯した。ただ評価は功績を第一義とし、誤りは第二義とする」との決議がなされた。
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