歴代の中国の国家主席(最高指導者)

代次 名前と統治期間 功績、略歴など
6代目 習近平
(しゅう・きんぺい)

(シー・ジンピン、シー・チンピン)

2012年11月~
現在
党総書記、中央軍事委員会主席、国家主席という「党・軍・国家」の最高ポスト3つすべてを手に入れてスタートを切った。 このうち、軍については、前任の胡錦濤氏のときは、前々任の江沢民氏が総書記を退いた後に2年間にわたって軍事委主席にとどまった。 江氏も、鄧小平氏の後見の下で軍事委主席になった。

こうして権力を自分に集中させた習近平氏は、1期目において早々に、歴代政権が取り組めなかった反腐敗や軍の改革を実行した。

2期目には、2035年までに「社会主義の現代化」を実現し、建国100周年の49年前後には、世界最高水準の国力を持つ「社会主義現代化強国」を目指すとの目標を掲げた。
5代目 胡錦濤
(こ・きんとう)

(フー・チンタオ)

2002年11月~
2012年11月


鄧小平に選ばれた王道を歩む人だっただけに期待が大きかった。しかし、政治改革では信頼を裏切った部分が多い。

経済発展優先から和諧社会の実現という新たなテーマを打ち出したが、貧富の格差や腐敗の広がりへの取り組みは徹底せず、果断さがなかった。

数字上の経済成長はできたが、構造的な経済改革に取り組めなかった。胡錦濤時代は「失われた10年」だったと厳しい評価を下す人も多い。

中国はそれまで、経済発展を優先した外交を展開していた。しかし、胡政権の後半に、主権と安全保障も重視する外交への転換があった。
4代目 江沢民
(こう・たくみん)

(チアン・ツォーミン)

1989年11月~
2002年11月
1989年の天安門事件で失脚した趙紫陽総書記の後任として、上海市党委員会書記から総書記に就任した。

前任の鄧小平氏は自身が熱烈な改革推進派でありながら、それ以上に中国指導部内の改革派対保守派の対立を超えたバランサーとして強大な指導力を発揮してきた。 だが鄧小平氏は胡耀邦、趙紫陽両総書記らを後継者として育てながら保革抗争の中で切り捨てざるを得なかった結果、最後の選択として江沢民氏を総書記に据え、さらに2つの大会を通じて新指導部を編成した。

1980年代から90年代にかけて、鄧小平氏や陳雲氏ら「八大元老」と呼ばれた長老たちが、最高指導部である政治局常務委員会をしのぐ権力を誇った。しかし、元老を中核とした党中央顧問委員会は、鄧氏の意向で92年の党大会で廃止され、「元老」という言葉もすたれた。



江沢民氏を知る人々は、江沢民氏が有能なテクノクラートであることを認めつつも、「12億のトップの器」であるとの印象を抱けず、不安や不満を漏らすものもいた。だがその種の評価も毛沢東、周恩来などあまりにも「偉大」な指導者が去って間もないうえ、現在も鄧小平氏の巨大な存在を前提として江沢民氏を見た印象であった。

天安門事件の影を引きずる李鵬首相にもそうした「偉大さ」を感じるものは少なかった。天安門事件以降の「治理整頓」と呼ばれた政治、経済、社会にわたる引き締め政策の推進者として、あるいは少なくとも保守派の「治理整頓」に追随した点で改革志向の人々の評判はすこぶる良くなかった。

もっとも風見鶏と言われながらも天安門事件がもたらした政治的緊張と経済的混乱をとにかく乗り切った点で高く評価する向きもあったが、やはりポスト鄧のトップリーダーだというイメージは薄かった。

1998年3月に登場した朱鎔基政権は、国有企業改革、行政機構改革、金融体制改革の3大改革の3年達成を目標にスタート。 国有企業の改革などで成果をあげた。

世界貿易機関(WTO)加盟も、朱鎔基首相が成し遂げた。これにより、大量の外国投資が入った。

北京五輪と上海万博は江沢民政権の努力で招致に成功した。

江氏は「院政」にこだわった。2002年の第16回党大会で総書記を退いたあとも2年間、軍トップの党中央軍事委員会主席にとどまった。 この院政は、不本意な形で引退した李瑞環・元全国政治協商会議主席をはじめ、李鵬元首相や朱鎔基前首相らの不評を買ったとされる。
3代目 鄧小平
(とう・しょうへい)

(トン・シャオピン)

1978年12月~
1989年11月
3度にわたって失脚。そのたびに復活を果たした。 経済成長で中国を超大国に導いた。 農民の生産請負制、工場長の責任制、沿海開放都市、経済特区と矢継ぎ早の改革を行った。

毛沢東の革命・政治第一主義を、経済開発優先主義に転換し、毛沢東の革命主義が克服できなかった国民経済の遅れを回復するのに、相当程度の成功を収めた。その結果、それまで暗い閉鎖的な印象を持たれていた社会主義中国は、国際社会に積極的に参加することを期待される、明るい開放的なイメージの国に変容した。政治家としての鄧小平氏も、国際的に明るいイメージでとらえられていたといってよいであろう。

毛沢東の「貧困のユートピア」を否定し、現代化建設のために「1つの中心」として経済発展を最優先した。1978年末以来、そのために計画・統制から市場化をめざす経済体制改革と、先進国からの豊富な資金と先進的な技術の導入をめざす対外開放を推進した。10年間でGDPの2倍増を実現し、国民生活も豊かになった。しかしそれが政治的な民主化の声も高め、天安門事件となり、軍隊の力で鎮圧しなければならなくなった。

天安門事件。丸腰の市民や学生に銃口を向けた血の日曜日として世界の指弾を受け四面楚歌(そか)となり経済も沈滞した。この時も、やはり鄧小平氏が救った。1992年1月の南巡講話を境に経済は急成長を遂げる。

事件後に改革・開放が停滞し、しかもソ連・東欧社会主義の解体によって中国社会主義は危機に直面したが、鄧小平は改革・開放と経済発展の加速化によって危機乗り切りをはかった。それが1992年春の「南巡講話」であった。

改革先進区で発展著しい広東や福建を視察し、加速化の指示を繰り返し、全国を高速成長の「熱気」に巻き込んだ。1992年以来、経済は3年連続して13%前後の成長率を記録し、彼が誕生したときには亡国の危機にあった中国が、1990年代後半には「次の超大国」として世界的に注目されるようになった。
2代目 華国鋒
(か・こくほう)

(ホワ・クオフォン)

1976年10月~
1978年12月
1966年から10に及ぶ文化大革命は、まさに後継者の墓場となった。建国前の1945年の党大会で、後継者の地位を確保した劉少奇は、「資本主義の道を歩む実権派」として批判され、悲惨な死に追いやられた。ソ連のフルシチョフに修正主義を見た毛沢東は、劉少奇に同じものを見てとったからだった。

毛沢東の劉少奇追い落としの共謀者、林彪が新たな後継者となり、党の規約にまでそのことが明記されたが、その転落も早かった。劉少奇の失脚で空席となった国家主席(国家元首)の座を狙った林彪は、野心ありとして毛沢東に疎まれ、1971年、海外逃亡を余儀なくされた。搭乗機がモンゴルで墜落し、抗日戦、国共内戦の英雄はあっけない最期を遂げた。

劉少奇とともに失脚したものの、林彪の死去で後継者にまで浮上した鄧小平は文化大革命の軌道修正を図ったが、毛沢東の怒りに触れ1976年再び転落した。

毛沢東が最後に選んだ後継者が、凡庸ではあるが、毛沢東にあくまでも忠実な華国鋒だった。毛沢東夫人・江青らの「四人組」を逮捕して国民の喝さいを浴びた華国鋒だったが、毛沢東には誤りなしとする愚直なまでの忠実さが命取りとなり、復活した鄧小平に足元をすくわれた。その背景には、文化大革命に象徴される激しい政治闘争にあきあきし、生活の豊かさを求める国民の動向があった。
1代目 毛沢東
(もう・たくとう)

(マオ・ツォートン)

1949年10月~
1976年9月
■新しい中国を建国
毛沢東は農村でのゲリラ戦という独特の闘争で国民党を打倒し、革命を勝利に導いた。帝国主義、封建主義、官僚資本主義という「三つの大きな山」を覆し、1949年、中華人民共和国を樹立した功績はだれも否定できまい。

中国国民党との内戦に勝利した共産党は1949年10月1日、中華人民共和国を建国した。毛は国家主席となり、執念ともいうべき国家建設と思想改造を推進した。

中国は、清朝末期から一世紀にわたって乱れ続けた。共産党の旗のもと、それを一つの国にまとめ上げたのが毛沢東である。秦の始皇帝をもしのぐ驚異だった。

辛亥革命で清朝が滅亡したあと、中国は軍閥が入り乱れ、列強が権益をむさぼり、国内はずたずたとなった。その巨大な混とんを、毛沢東は抗日戦争、国民党軍との内戦の末に統一した。

■長征と農村革命
毛沢東は1893年(明治26年)12月26日、湖南省韶山沖で生まれた。17歳で目撃した長沙での十数万人の飢餓暴動と清朝政府鎮圧軍との衝突が、階級闘争の決定的動機だったという。

1921年(大正10年)年、中国共産党設立と同時に参加し農民・農地解放運動で活躍。1931年には江西瑞金に中華ソビエト共和国を設け主席に就任した。

国民党軍と内戦中の1934年から2年間、南部の根拠地から黄土高原まで、1万2500百キロを戦いながら移動した。毛沢東はこの過程で党内の主導権を握る。20世紀の奇跡といわれる行軍「長征」を成功させられたのは、農民の支持があったからだった。

武器は貧弱だった。それでも勝利を得たのは、人口の大半を占める小作貧農を地主支配から解放し、その支持を得たからだ。彼は長く続いた封建社会を壊し、農民を国の主役にした。彼の社会主義は、農民革命でもあった。

毛沢東はいかにして下層農民ら底辺の人々の心をつかみ、団結させ、農村革命を成功させたのか。それを解くカギは毛が根拠地で行った、二つの重要な政策に求めることができる。

その第一は、「60%以上が地主に握られ、農民の手にあるのは40%以下」(毛沢東「井岡山の闘争」)という土地の所有問題の解決に全面的に取り組んだことにある。地主の土地を没収し、実際に田畑を耕す者たちに公平に分配することによって、自分の土地を持ちたいとの農民たちの最大の欲求にこたえ、広範な支持基盤を築いた。

第二に、労農革命軍を名実ともに「人民のための軍隊」へと改組、そのための精神をたたき込んだ。創設間もない軍の中には元流民なども少なくなく、農民から食糧をかすめ取ったり、地主・土豪からの徴発品を山分けしたりする現象が見られた。このため、毛沢東は「三大規律」「六項注意(後に八項注意)」という厳格な軍規を定め、「行動は指揮に従う」「人民からは針一本、糸一筋も取らない」などの方針を貫徹させた。

毛沢東の政策は、理論的武器としてはマルクス・レーニン主義の衣をまとっていた。だが、「食べ物があればみんなで食べ、着る物があればみんなで着る」といった、中国に伝統的な平等主義のユートピア思想(大同思想)の影を引きずっていたともいえる。

■大躍進
1957年11月、毛沢東はモスクワの世界共産党会議で気宇壮大な生産目標をぶち上げた。「中国は15年のうちに鉄鋼生産量で英国に追いつき、追い越す」。現実よりも共産主義の理想にとらわれた毛は帰国後、党内の慎重論をはねのけ、大衆動員による技術改革運動などを通じて生産の飛躍を目指す「大躍進」をスタートさせた。

こうした中、翌年8月の北戴河(ほくたいが)会議は農村の人民公社設立を決議。年末までに全国74万の農業合作社が2万6000の人民公社に生まれ変わった。

しかし、1958年からの大躍進運動は、農民を「土法煉鋼」と呼ばれる旧式の製鉄製造に追い込み、悪質な鉄鋼を生産、飢餓という大人災をもたらした。

人民公社は自留地、家畜の共有化などの行き過ぎた平均主義で農民の労働意欲を大きく減退させた。大躍進も食糧の水増し報告や粗悪な鉄を大量生産するなどの浪費を生み、自然災害も加わって、食糧の大幅減産とそれに伴う広範囲な飢餓をもたらした。事態を憂慮した彭徳懐国防相は59年7月の廬山(ろざん)会議で、毛沢東に政策転換を直訴したが、反党的として怒りを買い、解任された。

■文化大革命
1966年からの10年、動乱の文化大革命は工場、学校、伝統文化の破壊、四人組の暗躍など権力闘争に明け暮れ暗黒の時代と総括される。

1956年2月、ソ連のフルシチョフ第一書記はソ連共産党大会で、体制の異なる国家間の平和共存と社会主義の多様化を認め粛清や個人崇拝を否定した。いわゆるスターリン批判に世界で最も恐怖を感じたのは毛沢東だった。自分への個人崇拝を認め、「世界を抱きかかえるまで大きくなりたい」との野望をもつ毛沢東は、対露関係を絶縁し、党内のフルシチョフ的人物の一掃にとりかかった。

十年間にわたる不毛な文化大革命である。劉少奇ら同志を死に追いやり、不法に迫害された者だけで一億人は超えたという。

「造反有理」。この魅惑的な言葉が若者をとらえたのは、文化大革命が始まった1966年夏だった。紅衛兵たちは四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)打破の呼び掛けの下、「毛語録」を掲げ、文化人、知識人をつるしあげ、劉少奇、鄧らの「走資派」打倒運動に熱狂的に参加した。

失敗の象徴の一つが人民公社。1958年の「大躍進」政策の三本柱の一つとして華々しく登場した。もともと、「公社」は中国語でコミューンを意味する言葉である。パリ・コミューンに強いあこがれと、熱い思いを抱く故毛沢東中国共産党主席自らの号令によって、それまでの高級農業生産協同組合を連合する形で全農村に設けられた。特徴は、行政機能と経済生産を統合(政社合)した点にある。

毛主席の狙いは、人民公社を足がかりにしての国家コミューン化であったといわれている。公社級、生産大隊級、生産隊級の三つの級にわかれ、土地、家畜、農業機械、資金を共有し、独自の分配方式を持つなど、進んだ社会主義経済のヒナ型としてもてはやされた。

だが、文化大革命の挫折のなかで、人民公社にも多くのひずみが表面化した。農村に生産責任制が導入され、「万元戸」が誕生する風潮のなかで、人民公社は実情に適応できない局面を露呈してきたのである。

文革の実相を追究した作品で知られる天津在住の作家、馮驥才氏は1989年、以下のように語った。「毛沢東は、外国に侮辱され、奴隷状態にあった中国を統一し、自尊心のある国にした。この偉大な功績はいつの時代でもだれでも抹殺できない。毛沢東が文革を発動したことは許されないが、文革の責任はすべて毛沢東にあるという論理には私は賛成しない。毛沢東は歴史の上で永遠に評価しきれない人物だと思う」。

革命闘争であれだけ「実事求是(じつじきゅうぜ)(事実に基づいて真理を探る)」の魂を発揮した毛沢東が、晩年は自らその精神に背いてしまった。

1976年9月9日、紅青以下四人組への批判と鄧小平ら現実派の台頭の中、83歳で死去。1981年6月、鄧小平の下での六中総会で「偉大なる革命家であったが文革で重大な誤りを犯した。ただ評価は功績を第一義とし、誤りは第二義とする」との決議がなされた。